恋人が欲しい自分と完全否定する自分

好きな人ができたらいいな、とは思えないのが正直なところ。

恋人が出来たらいいなと思うことはある。でも出来たところで何になるのかと、自分で否定している部分は大きい。先に何があるのか、何が生まれるのか、そういうことが大事なのではないだろうけど、少なくとも、一般的には考えるであろう先々のことは「ない」だろうし、あり得る範囲のことでさえ求めているのかは疑問である。(ただし、まだ何もかもが未経験である故に議論が進まない、というのもないことは無い。)

 

正直になれば、恋人が出来て、誰かに好かれたい。再三になるが、それを否定するのは、周りの誰でもなく自分である。時間を作る気がない、好かれるよう身なりを整える気もない、人を見ようとしない、自分の時間が大事である、そういった何もかもの要素が、現状恋愛に向いていないのではという気にさせて来る。(経験もないのに、であるが。)

何かしらの場に向かわなければ決して出会いは訪れない。怖いというのもある。求めるものが違いそうだからというのもある。変化を恐れるなと言われるが、そういうことだけではない。

 

人から触れられるのを嫌う性分である。障害というほどではないので、満員電車は諦めて乗れるが、電車の座席は極力隣に触れたくないし、知り合いとご飯に行っても隣の席と体が触れたくないので不自然でない程度に距離を取る。ボディタッチは出来るだけして欲しくない。プライバシースペースが広いとも言えるし、軽微な接触恐怖症ともいえる。

そんな自分が誰かと触れ合うことを許容するのか、そんな不安が無くならない。誰かを望めない、大人ならば付き合ってゆくゆくは、が許容できないのではないかと。

補足をすれば、私は潔癖とは違う。あまりそういったこと、間接的な何かにはほとんど気にならないし、汚さを気にしているわけでもない。直接触れること、といっても服を介しても嫌なのではあるが、接触そのものを気にしている。

 

自分の願望は自分が否定する。これまでに長い苦難の後に自分の現状は許容できたが、この先にある社会的な面、現実的な部分はやはり肯定できない状況である。そういった幸せは自分には訪れないのか、それ以外でしか人生を満たせないのかと思うことがある。(ただ確実にひとより恵まれ、充実はしていることは認める。)時々大きく心が揺れ、求めることはあるのに、ほぼ完全否定される、希望を捨てる自分が消えない。

できないことはないのであろう。でも超えるべき障壁を超えるエネルギーがない。

相談しても、そこまで考えこむことじゃないだろうと言われる。とりあえず動けと。でも一般的なことをして(自分がor相手から)受け入れられなかった場合を恐れてもいる。現状維持なら時々の発作的な衝動さえどうにかすればいいという考えもある。

 

ストレスを抱え込みやすい性格ゆえ、長生きはできないだろう。それに加えて、このままの状態で一生独身か、なんとかして結婚したとしても片隅に後悔を残したまま生きていくか。進める道には本当に行きたい道を想像できない。本当に良くない状態である。

何をすればいいのか、第三の道を進む勇気が、行動がなせるのか。できなければその手の幸せは得られない人生で終わるだけだ。

 

「自分の好きなように生きろ。お前の人生だ。」

好きな漫画の一番大事にして得る台詞。

恋愛に関してはできる気がしない。自分にはそのパラメータが振られていなかったのかもしれない。泣きたくなってくる。

夜中に永遠と暗く、落ち込んで行く。

考えることはいいことであるけれど、精神的には毒である。

 

自分の言葉が意外と味方なのかもしれない、と今思う。やろうと思ったことに、頑張るエネルギーを使ってはいけない。出来るだけ意識のエネルギーを消費せず、気楽に何かするしか答えに近づけないのか。試行なき思考に価値はなし、かも。

 

平成最後の病んでいる深夜2時半。本日も異常なし。

19/04/28成長日記

休暇で暇ができると心の隙が大きくなる。

 

朝、ギリギリではあったがやるべきこと済ませて予定通り動けた。

この先々のお金の話を親と出来た。改めていろいろ頑張らねば。

帰省中でも雑誌会準備を進めた。意外と行けるのでは、という印象。

 

兜の緒を締めねば。

死について

肉体の死、他者との関係の中に生きる人、思考の主体の死、といったことの話

 

死の定義は未だに正解と言えるものが得られていない。最近だと死後(各種組織停止後)数時間なら脳機能の一部回復の研究結果も出いている。医療の発展によって今後一層、死の定義は複雑化し曖昧さが深刻化していくと考えられる。

ただこれは社会による生死の境界線の話。今回は個人にとってはどうなのか、ということに注目していく。

 

他者の死について。死そのものの定義は(賛否あれど)社会によって与えられている。自発呼吸の停止、心肺停止、瞳孔が開くの3つで死とされている。例えば脳死は今のところ死ではないとされているが臓器移植は可能となっておりグレーゾーンとも言える。

しかし各個人にとっての生死の境界線はもっと多様になりうる。回復の見込みのない脳死にその人の生を見出だせないかもしれない。死を受け入れられず一般的には幻覚と言われる状態に陥るかもしれない。これらは他者の死に向き合った際の各個人の解釈の話。

このように個人にとって他者の死を受け入れるタイミングはそれぞれとなりうる。ここから少しずつ脱線していく。

肉体はある時点で生機能を停止したとする。ここから他の人によってこの死を受け入れられるまでにはタイムラグがある。その死に立ち会った人なら大抵は多少の差となるであろう。では少し遅れて知った人はどうか。肉体の死から知るまでの期間、その人の中では死者は少なくとも死んではいない。シュレディンガーの猫の極めて生きている確率が近い状態とも言える。箱に入れた直後のような状態。この状態を私は「関係の中で生きている人」と考えている。主体の生とは別の、他者によって生かされる状態。関係の中の人は主体の死を知り、受け入れることで死に至る。ここでのタイムラグは大小あるが比較的大きい。連絡を取っていない知人の死などではかなりの期間、関係の中の人自体は生きていくことになる。

逆に言うと、自分は誰かの中で生かされている、ということになる。そして自分の死とともに、ある人との関係の中にある人もある時死を迎える。あの人はもういない、と理解される。

 

また、死に際して思考の主体が無くなることは何よりも大きな事柄である。ここでは魂といった物質から独立した主体はないものとして話をしていく。今ある自分を意識しているそれが思考であるため、自明ながら自分の死は認識が不可能である。

肉体はすぐには無くならないにしろ、思考の主体が消え、自分が消える。今いる自分が無になる、という理解の出来無い、論理的に想像が不可能な状態をどう解釈していくか。私の中では未だにこの解釈はほとんど得られていない。

ただこれとは別の話、ある時から私は、死への恐怖、圧倒的な忌避感はこの自分が消えるという想像不可能な状態への恐怖なのではと考えている。底の見えない谷、穴を覗く時のような、先の見えないトンネルに入る恐怖のようなものなのではないかと考えている。

ただ、寝るという行為は意識がほぼなくなる。必ず夢を見ているという研究もあるそうだが、いずれにしろ覚えてないのであれば無いのと等価である。意識のない状態をとる睡眠に対しては許容であることに対しては説明が出来無い現状である。進化論的には死を避ける思考が存在し、何かしら生体機能の維持のための睡眠を許容するのは当たり前ではあるが。

 

話がとびとびでまとまりが無くなってしまったが、総じて死についての考察でした。

現状では、人は他者との関係の中にも生かされており、関係の中の人の死のタイミングが存在する。思考の主体としては死は想像不可能である。思考の主体は無になるが、他者の中では少し別で生き、死に、即時に消えてなくならない。(段々と薄れては行くけれど)

というまとめになる感じです。

 

なんにしろ、まだまだ死ねねぇな。

19/04/27成長日記

なにか考えて生きているか、と言われれば、そんな時はあるけれど、全体としたらあまり考え続けてはいない。今日は月一くらいの晩酌

 

高価な計算を突っ込んどいた。GW明けまで終わらないだろう。

 

合成がやっとうまく行くか。まだわからないけど前進せねば、なんとかして成功せねば。

 

雑誌会で質問を積極的に出来ている。このまま続けて行こう。自分の雑誌会の準備も始めた。予定を前後させてGWは実験以外をメインで行く。

 

明日から帰省なり。

19/04/26成長日記

一日空いた?気のせいだ

 

失敗で悄気げたがその日のうちに回復できた。

諦めず他のヒントをうまく探せた。当たるかは知らないけど。

同期に対して言うべきことを言えた。一方的になってしまった感じになったのが少し残念。今後に期待。

 

改元GW間近。

19/04/24成長日記

活動時間の8割が研究だから研究のことが8割

 

奨学金のいろいろを進めた。

 

前回失敗した反応をリベンジした。面倒でやりたくなかったけど上手くやれる気配があるのでもう少し頑張れそう。

 

進路を真剣に考え始めた。大学を変えようか、就職にするか。

 

日々大なり小なり成長