死について

肉体の死、他者との関係の中に生きる人、思考の主体の死、といったことの話

 

死の定義は未だに正解と言えるものが得られていない。最近だと死後(各種組織停止後)数時間なら脳機能の一部回復の研究結果も出いている。医療の発展によって今後一層、死の定義は複雑化し曖昧さが深刻化していくと考えられる。

ただこれは社会による生死の境界線の話。今回は個人にとってはどうなのか、ということに注目していく。

 

他者の死について。死そのものの定義は(賛否あれど)社会によって与えられている。自発呼吸の停止、心肺停止、瞳孔が開くの3つで死とされている。例えば脳死は今のところ死ではないとされているが臓器移植は可能となっておりグレーゾーンとも言える。

しかし各個人にとっての生死の境界線はもっと多様になりうる。回復の見込みのない脳死にその人の生を見出だせないかもしれない。死を受け入れられず一般的には幻覚と言われる状態に陥るかもしれない。これらは他者の死に向き合った際の各個人の解釈の話。

このように個人にとって他者の死を受け入れるタイミングはそれぞれとなりうる。ここから少しずつ脱線していく。

肉体はある時点で生機能を停止したとする。ここから他の人によってこの死を受け入れられるまでにはタイムラグがある。その死に立ち会った人なら大抵は多少の差となるであろう。では少し遅れて知った人はどうか。肉体の死から知るまでの期間、その人の中では死者は少なくとも死んではいない。シュレディンガーの猫の極めて生きている確率が近い状態とも言える。箱に入れた直後のような状態。この状態を私は「関係の中で生きている人」と考えている。主体の生とは別の、他者によって生かされる状態。関係の中の人は主体の死を知り、受け入れることで死に至る。ここでのタイムラグは大小あるが比較的大きい。連絡を取っていない知人の死などではかなりの期間、関係の中の人自体は生きていくことになる。

逆に言うと、自分は誰かの中で生かされている、ということになる。そして自分の死とともに、ある人との関係の中にある人もある時死を迎える。あの人はもういない、と理解される。

 

また、死に際して思考の主体が無くなることは何よりも大きな事柄である。ここでは魂といった物質から独立した主体はないものとして話をしていく。今ある自分を意識しているそれが思考であるため、自明ながら自分の死は認識が不可能である。

肉体はすぐには無くならないにしろ、思考の主体が消え、自分が消える。今いる自分が無になる、という理解の出来無い、論理的に想像が不可能な状態をどう解釈していくか。私の中では未だにこの解釈はほとんど得られていない。

ただこれとは別の話、ある時から私は、死への恐怖、圧倒的な忌避感はこの自分が消えるという想像不可能な状態への恐怖なのではと考えている。底の見えない谷、穴を覗く時のような、先の見えないトンネルに入る恐怖のようなものなのではないかと考えている。

ただ、寝るという行為は意識がほぼなくなる。必ず夢を見ているという研究もあるそうだが、いずれにしろ覚えてないのであれば無いのと等価である。意識のない状態をとる睡眠に対しては許容であることに対しては説明が出来無い現状である。進化論的には死を避ける思考が存在し、何かしら生体機能の維持のための睡眠を許容するのは当たり前ではあるが。

 

話がとびとびでまとまりが無くなってしまったが、総じて死についての考察でした。

現状では、人は他者との関係の中にも生かされており、関係の中の人の死のタイミングが存在する。思考の主体としては死は想像不可能である。思考の主体は無になるが、他者の中では少し別で生き、死に、即時に消えてなくならない。(段々と薄れては行くけれど)

というまとめになる感じです。

 

なんにしろ、まだまだ死ねねぇな。