生きること

生きることについて

 

よく「産まれてきた意味」といったことが言われてまして、これが「生きる意味」もしくは存在意義の意図で使われる場面を目にします。

とりあえず「意味」の議論はさておき。話が混み合いますので。

で、正直な感想、産まれてきたのはひたすらに親の勝手だろう、と思うわけです。決して親の自分勝手といったような否定的な意図は含めていません。自分が生まれたことは自分の意志とは無関係だろう、という考えです。そんなことは言われなくとも。

なら自分ができることは、問うことができることは、今まで生きてきたことはさておいて、これから意思を持つ自分がどうしていくか、ではないのでしょうか。だから「生きていく意味」に目を向けるのが妥当だと思うのです。幼少期などは、そこで生きてきたことも、今となってはただ「結果」であって、目的ある成果とは見なせないのでは、という考えもある故でです。

ここからは推測ですが、産まれてきた意味を求める心理には、自分で自身の生に意味定めなくても良いことで、精神的か何的かは定かではないですが、楽をしようとしている現れなのではないかと感じてしまいます。自動的に与えられる方が気楽かもしれませんね。このことについては、あまり是非を問えるものではないので、これくらいに。

 

生きることの話の派生で、死ぬことの話、生きることが半ば強制される話、人の価値、すこし飛んで教育の話、社会の話とかに繋がっていきますがまとまりなくなるので思い立った時にでも。

 

ともあれ、生きる意味がはっきりしないまま二十有余年生きております。