私が「自分」を指す何がしか

私が意識、認識する「自分」についての話。

肉体が自分か、意識を生む脳が自分か、はたまた非物質的な魂か。ただ脳死の話でよく言われる生きているとは、と少し違う方向です。

いろいろと言われますが、僕(書き手の一人称は僕で統一します)の行き着いた一つの答えなんですが、私(一般の人を指す一人称)が意識する「自分」とは、その私の傾向であると思うのです。関数というのが今のところ最適な表現だと思っています。

さて、どういうことか。関数の例を使っていきます。ある未知関数があり、この関数の変数はいくつかあるとします。何でもいいので変数に代入していくと、関数はある値を返してきます。別の変数を与えればまた別の値が返ってきて、これを繰り返し座標をとってグラフを作るとなんとなく線ができるでしょう。この線が関数の正体となります。

つまり未知の関数に実体を与えるには、変数に沢山の値を代入すればよい。

これを人にも当てはめるのです。

自分とは未知の関数で、変数はありとあらゆる刺激(脳への刺激)が当てはまります。刺激と言っても外部の感覚的刺激だけでなく、外部からの情報による刺激、自己の中の思考による自発的な刺激もすべて含まれます。

刺激によって感情、思考、感覚など、様々な反応が返ってくるのを私は認識します。様々な刺激に対して逐一私は応答を認識し、刺激が多くなるほど応答を集積、次第にその傾向を直感的にイメージできるようになっていきます。

このイメージが関数の与えるぼんやりとした線、つまり掴みかけている自分であると思うのです。冒頭ではこのイメージを傾向とも表現しました。

ところで、イメージがあれば自分が刺激に対してどんな応答をするか予測できますが、もちろんその精度はまばらで、この予想から大きく外れることもあります。なぜか。

これはいくつかの原因があると考えているのですが、一つは変数が無数であること、また私が代入できる変数に限度があること、関数自体が刺激(変数)と時間によって大小の変化すること、と言った点を挙げます。だから、自分を捉えることは不可能、ぼんやりとした線でしかわからないのだと思うのです。

「自分のことは自分が一番よくわかっている」なんて思いますよね。なんせ生まれてから一番沢山の応答を集めてますから。誰よりも確からしいイメージがあるはずですよね。でもわかっているのは刺激から返ってきた応答だけ。自分の正体は真に掴めてないわけです。(関数の式を見ることはできないのです。)イメージと真の自分は全然違うのか、どうなのか、こっからは議論の外なのでとりあえず放置しときますね。

最後に、これは私の認識する「(特定の)彼」についても当てはまると思います。もちろん見た目も(光を彼への刺激とし、反射することで)私の認識する応答で、話すことも情報の彼への刺激と私の認識する応答があります。そうしてできあがる彼のイメージが私の持つ「(特定)の彼」を指すのだと僕は思っています。

肉体、意識、脳、ましてや魂などを指して、それが「自分」「彼」と認識しているのではなく、刺激からの応答の集積から出来上がるイメージ、関数で言うところの線を指すのだと思います。

 

だいぶ長々と書いてしまいました。この話はもともと現象学をかじった時のもの。応答と表現したものを現象学では「現れ」としたりしますがわかりにくいのではっきりした表現を使わせてもらいました。

この続きに、他人の死の認識、自分の将来の死の認識、感覚の話、思考とは、信頼とは、などの話につながりますが別のところでとしましょう。

 

つまるところ、自分は関数である。