見えている世界しか見えていない

これは僕のいくつかある格言、座右の銘のうちのトップで大事なもの。(なおオリジナル)

 

「私も他人も、自分が見えている世界、考えている思考の内しか見られない。」

端的には、見えるもの以外は見えない、というトートロジー(tautology)なんで、当たり前なことでしかないのです。でもなぜ格言になるかと言えば、これを忘れがちで良くないことが多数起きていると感じているから。

見えている世界しか見えていない、という当然のことから何を見出すか。大きくは2つで、他人の世界のこと、自分の世界の外のことです。

まず前者の他人の世界のこと。勿論他人の思考、何を考えているか、何ん考えられるのかといったことを私は正確には分からない。当然ではある。がしかし忘れてしまいがちである。自分の考えられることは他人も出来るはず、などついつい相手に自分の勝手に期待してしまう。相手がどうかなど不確定なのに。こう言ったから伝わったはずだ、ここまでは考えてくれる、等もある。相手の理解できない行動などにもこのことが言える。理解できない、という状態がそもそも相手に自分の世界を適応しているのかもしれない。一般的に寛容になるとは、一つは相手は自分と違うことを理性的に処理できることなのではないかと思うのです。見ている世界、世界の解釈、注目する点等、他人との差は限りのないものである。これほんとに忘れて人に苛々するのが良くないことの一つ。

後者に移って、自分の世界の外のこと。問題を解くときによくある、こんな答え思いつかなかった、というあれです。自分には考えつく思考に限りがある、そこが及ばない範囲が常にある事実を忘れがち。だから先入観に囚われてドツボにはまる。(思考的、物理的に)見えていない世界が常にあることを忘れては多方から見て死角を潰すことを忘れる。見えていないことを意識すれば、見えている世界が自分にはいま見えている「だけ」であると意識でき、見えていないものを探索する余地が常にあることを意識できる。

自分が見えている世界は自分だけが見えている、という意識もまた他人に理解されないことへの理解、準備になる。良くも悪くもすべての人の世界は限られている。その世界は決して重なり合わない。ただ重なり合わない世界があることを意識することはできる。自分の世界の端を意識すれば広げる意識も生まれ、世界の外にある未知(他人の世界)への理解の諦めがつく。

 

他人の見えている世界を全く同じように見ることはできない。見るとしたらなにか間接的に、何かしらの変換を経たもの。これは言葉であったり、その他の情報であったり、何にしろ全く等しい世界を見れず、変換を経て変化したものになってしまう。変換したあとはここからは逆に自分だけが見える世界に入ってしまう。だから相手がこれを確認することもできない。なんとも不便な状況で、私達は日々「お互いの理解」をしている。こんなの出来やしない、できたと思っても一方の思いすごしでしかない、というのが正確なのだと思う。その上で、出来る限り近づける。同じ世界を見れない前提で、近づけることを意識すればいろんなことがいい方向に行くのでは。いつもそんなことを思っています。

 

自分の見えている世界しか見えていない。

トートロジーで、至極当たり前すぎるのに、かなりの場合で忘れられ、そして諸々の悪いことに繋がること。

まだまだこれを忘れることがあって、気づくたびに反省する段階です。一生涯の課題かもしれない。

 

なんにしても、今生きる私が私の主人公